朝の血液検査の結果(正確にはそれだけではなく総合的な判断だが)、残念ながら外泊許可は出ず。
出られると信じて疑わなかった息子はそれを聞いて明らかに落胆し、涙を堪えるのが精一杯なのが手に取るようにわかった。
先生も帰るのが楽しみだったのを知っているし、なにより年越しの日ということもあってすごく言いづらそうだったけれども、とはいえしっかりと説明してくれたので本人もとりあえずは納得。
とはいえまだ望みは捨てきれないようで、また明日の朝採血をしてもらうように頼んでいた。
新年あけましておめでとうと笑っていえるといいけれど、結果はどうなることやら。
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以下ネガティブ記述。
まとまり無し。
ただの吐き出し。
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あっという間に過ぎた2017年。たぶんこの年のことは一生忘れないんだと思う。
ある日突然降りかかってきた悪性リンパ腫という病気。
選択の余地もなく(治療を受けること自体はもちろん選択だが)長期の入院を強いられて、やっと出口は見えてきつつも、それでもけして短くない期間、入院治療をしなくてはいけない。退院しても年単位の通院治療が計画されている。
治ると信じているし、統計的にもけして悪くない予後が示されていつつも、それでも再発するかもしれないという心配を本人はこの先ずっと抱えていかなくてはいけないという枷。
この枷を誰の責任でもなく負わなくてはいけないということに、どうしようもなく不公平な気持ちにさせられることがたまにある。
誤解を恐れずに言えば、タバコをスパスパやっている人が肺癌になろうが、アルコールびたりの人が肝癌になろうが、それは正直自業自得。
やりたいようにやった結果なるべくしてなったわけだから、自身の選択の結果として甘んじてそれを受け入れればよいと思っている。
それは自分の息子ががんという病気になってからも変わらない。
一方で、たとえば自分達がお世話になっている病棟には、なんの責もなく、ただ運悪かったというだけでがんを発症したこどもたちがたくさんいる。
そして、そういったこどもたちを何とかして元の生活に戻そうとしている親たちもたくさんいる。
そしてさらにその一方で、簡単に人の命を奪う輩が多くいる。
そんな中で、なぜうちが?
代われよ。
こんなことを考えても何にもならないのは十分わかっているし、こういう思考に囚われるとどんどんそちら側に思考が引っ張られていってしまうのもわかっているので、普段はニュートラルかそれより少し前めに気持ちを意識しておくようにしているけれども、とはいえやはり世の中がめでたいムードに染まっているときにその対極に(責がないのにも関わらず)いなくてはならないという状況になると、どうしても、どうやっても被害者妄想に囚われてしまう。
世の中不公平だ。
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とまあなんだか吐き出すように書いてしまったが、とはいえ2017年は終わり。
大晦日も元日も、そうでない日も等しく1日なので、一歩一歩、歩を進めていきたいと思う。